オードリーの若林とコロナ自粛中の旅人2
題名に「2」をつけるのはダサい。
と思った。
とはいえ、妙案も思い浮かばない。
そもそも、さらに掘り下げて記事を書くつもりはなかった。
こんなこともあるんだな。
「2」とつけたほうが前回からのつながり感もでていいかな。
ちなみに前回。
tadasoredakenokoto.hatenablog.com
オードリーの若林さんについて書いた。
いまだにオードリーはぼくの中でブームです。
ハードカバーより文庫本が好きだ。
サイズ的に。
片手で読めるし、ズボンの後ろポケットに入るベストサイズだ。
Kindleももっているが、いまだに文庫本をかってしまう。買いたい本ならば、Kindleで買うことのほうが多いが、ザッピングはやはり本屋に限る。思ってもみない面白そうなものがたくさんあるからだ。世界が広がっていくのを感じられる。
平積みされている本を眺めていた。
見慣れた顔ときったない犬が表紙になっている本があった。
お、これも文庫本ででましたか!しかも、文庫本の書下ろしもある!
半分はしっている内容だが、これは即買い。
読むテンションを間違えた。
前半のキューバ部分は、読んだことがあるので後半部分のモンゴル編から読んだ。
だが、思ったよりぐっとこなかった。
所々に、若林さんらしく人見知りがでたり、負のエネルギーを醸し出していたが。
なぜだろうか、つまらない訳ではないのだ。
そこで思い当たる節が一つあった。
僕がリトル・トゥースになりつつあることだ。
オードリーのオールナイトニッポンの過去のものを最近よくきいているのだが、その中に若林さんの一人旅編もあった。まさにこの本に書かれているキューバ、モンゴル、アイスランド編もだ。
とても軽快で面白く笑いながら何度もきいてしまった。
その記憶があったからこそ、この本をみかけったときもすぐに買ったのだ。
あの面白い話が本でもよめる!と思ったから。
そのテンションのまま本を読み始めてしまった。
始めに感じた違和感は
「あれ、ラジオの話と違うな?」
と思った。
ここはこんなんじゃなかったっけ?
前振りの話がないなぁ
とか。
次にやけに内面の描写が多く展開が遅いなぁ、と感じた点。
こんな思いを抱きつつ最後まで読んでしまった。そのため、思ったよりおもしろくなかったな、と感想を抱いてしまった。
しかし、こんな感想を抱いたのは完璧に自分のせいだ。
ラジオはラジオであり、本は本なのだ。
ラジオで面白かった話がそのまま本になってくる訳ではない。そのまま本にするぐらいなら逆に意味はないのだ。ラジオは生放送で時間も限られている。いったばかりで、感情の鮮度も高い。それをラジオらしく面白おかしくはなしていたし、リスナーも当然それを期待しているし、ぼくも楽しませてもらった。それをそのまま本にもってきてはいけないのだ。
本は本だ。ラジオみたいに面白おかしくするのではなく、本でしかできないこと、文字で表すから伝えられることもあるのだ。とても痛感した。
元々、僕が若林さんの書籍に求めていたものもそれでないだろうか。
曝け出したくない自分の内面や心の闇の部分、生きづらさとか。
今までの書籍でも、そのことがとても共感でき、読み入っていたのではないだろうか。
生々しく生きていく。
気持ちを整理し、後日また読み直した。
今度は頭から読み直した。
面白かった。
やはり若林さんは若林さんだった。
他の書籍やTVでも言ってしたが、確かに段々と人見知りが治ってたり、心の闇の部分が減ってきているように感じた。
しかし、「生きづらさ」を考えるという、生きづらいことにも考察していた。
心の闇をだんだんと克服してきたから言える、心の闇の部分への考察がとてもするどい。
アイスランドの噴き上げる間欠泉でのこの一文が若林さんらしい。
『白い煙を見ながら「なんだやっぱり怒ってていいのか」と思った。熱くて当然だし、怒ってていいし、ぐじゅぐじゅの不安定でいいのか。
・・・・
「なんだこれでいいのか」
そういう風に思わせてくれてぼくは救われた。』
誰もが心の中に闇を抱えていたり、もやもやした思い、生きづらさを抱えている。そしてそれを隠して、抑え込んでガマンして生きている。外にはだしてはいけないことだと。でも、いつまでもガマンできるわけじゃない。いつかは外にでてきてしまうし、外にだしてあげなきゃいけない。それは恥ではなく、そういうものなのだ。吐き出したからといって何か変わるわけではない。それでもいいのだ。たまに吐き出すことが大事なのだ。そういう風に生きていっていいのだ、と思わせてくれた。
あとがきをCreepyNutsのDJ松永さんが書いていた。
この人も生きづらさを抱えてきた一人だ。
松永さんの若林さんに救われたみたいだ。
「俺は誓いました。あなたのように生々しく生きていこうと。」