生きていく。ただ、それだけのこと。

システムエンジニア、旅、世界を学ぶこととか、雑記ぶろぐ。世界遺産マイスターになれました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩く ~カミーノって?~

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路。

通称、「カミーノ(Camino)」。

日本では馴染みの薄いものかもしれない。

キリスト教の三大聖地をご存じだろうか。

バチカン市国

エルサレム旧市街 聖墳墓協会」

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

 

このうち、なんとなく「バチカン」「エルサレム」は知っているのではないだろうか。

TVなどでもたまに出るし、「バチカン」はローマから近く(ローマ市内?にある国)、観光で行ったことがある人も多いだろう。

サン・ピエトロ大聖堂 バチカン

 

エルサレムイスラエルにある都市で、キリスト教イスラム教、ユダヤ教の聖地になっているややこしい場所。聖地、というよりも

『中東で争いの起こっている場所』

のイメージが強いかもしれない。つい先日も、トランプ大統領アメリカ大使館をエルサレムに移転することを決定し、国際問題になっている。

(何で問題になっているの?はまた別の機会に。)

など、なんとなくニュースでみた、きいた、といったとこだろう。

ここにはイエス・キリストが十字架にかけられ処刑されたゴルゴダの丘があったとされる場所で、そこに建てられたのが聖墳墓協会。

聖墳墓教会 エルサレム

 

 

そして「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」。

僕のまわりで、知っていたのは2人だけだ。

行きつけの喫茶店のマスターと合コンで話した女の子。

(マスターは元旅行代理店勤務、女の子は海外映画の字幕を作る翻訳者と比較的海外の文化に触れてきている人。)

ましてや、実際にいったことある人はいない。

三大聖地の一つなのにあまり知られていないのは残念なことだ。

僕がしったのは世界遺産検定の勉強をしているときだ。その時は、そんなところがあるのか、ぐらいだった。

 

ある日、代官山のTSUTAYAにいった。

(あそこいいですよねー。大好き)

紀行文のコーナーで目にした一冊の本。 

※でも、この時は中身読んでません。ごめんなさい。

 

「あーこんなのあったなー」

「歩いてスペイン横断するのか。面白そうじゃねえか。」

「でも、休みとれないといけないよな。

・・・

・・・・

「。。休みとればいいか!」

 

 

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路って何?

サンティアゴ・デ・コンポステーラ = Camino de Santiago

ユーラシア大陸の西端、スペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指して徒歩で向かう(自転車でもOK)キリスト教の巡礼路である。

 

サンティアゴ巡礼路 ルート

出典:http://caminodesantiago.consumer.es/

 

中世より続くこの伝統は一時期は廃れたものの、21世紀に入りまたブームとなっている。2018年には年間35万人を突破した。

サンティアゴとはキリスト12使徒の一人聖ヤコブのスペイン名である。キリストの死後、ヤコブローマ帝国の属州であるヒスパニア(スペイン)に赴きサラゴサガリシア州などで布教活動を行う。しかし、ヒスパニアでの布教活動はうまくいかずエルサレムに戻ることになる。

しかし、ヤコブの帰国によるキリスト教の広がりを恐れたユダヤ王アグリッパはヤコブを迫害し、斬首した。こうして、ヤコブは12使徒中最初の殉教者となった。キリストの復活を恐れるアグリッパはヤコブの遺骸をその地に埋葬することすら許さなかった。

ヤコブの死を悲しんだ弟子のテオドロとアタナシオは、遺骸を舟に乗せかつて布教を行たガリシアにたどり着き、そこに埋葬した。

その後、支配者が移り替わり、いつしかヤコブの遺骸は行方不明となり、また長い間その存在も忘れ去られたものになってしまった。

そして、813年。星の光に導かれた羊飼いによってヤコブの墓が発見され、そこに教会を建て、カンポ(野原)とステラ(星の)を合わせた『コンポステーラ』と名付けられた。イエスや聖人にまつわる遺品は聖遺物と呼ばれ、多くの信者を引き付けた。聖遺物には奇跡を起こす力があると信じられていたからだ。聖ヤコブはスペインでのキリスト教守護聖人となり、シンボルとして祀られるようになった。

巡礼の最古の記録としては951年であり、11世紀にはヨーロッパ中から多くの人があつまった。当時はイスラム勢力の拡大によりエルサレムやローマ(バチカン)といった他の聖地への巡礼が困難となっていたこともあり、ヨーロッパ中の人々がサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を行うようになった。最盛期の12世紀には年間50万人にものぼった。また、巡礼はスペインとヨーロッパの文化をつなぐことにもなった。特にクリュニー会が中心となって巡礼者を助けるための教会や施設を建造した。

その後、キリスト教内の内部分裂、宗教革命後のプロテスタント諸国での巡礼及び聖人崇拝の禁止、聖母マリアへの信仰心の変化などによりサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は下火になった。16世紀後半にはイギリスとの闘いにやぶれたスペインは、イギリスによる略奪を恐れた教会が聖ヤコブの遺骸を紛失してしまい、巡礼に対する人気が凋落した。

(余談ですけど、ほかにもケルンの大聖堂の設計書紛失とかそんな大事なものなくすもんかね。コピーって大事なんですね。)

19世紀後半になり、サンティアゴ教会の祭壇下の発掘調査により聖ヤコブの遺骸が発見された。発見翌年には祭壇が設置され今と同じような形で人々は再び聖ヤコブの墓を前に祈ることができるようになったが、スペイン内乱等もあり、サンティアゴ巡礼は本格的に再開したのは1980年代になる。正式な巡礼者統計を取り始めたのは1985年となっている。

現在、サンティアゴ・デ・コンポステーラのあるガリシア州政府は観光の目玉として巡礼路をアピールしている。巡礼者の多くは徒歩で、自転車を使う人や少数だが中世のように馬やロバを使う人もいる。信仰のためだけではなく、観光やスポーツ、単なる目標達成のために歩く人もいる。

 

 巡礼路は様々なルートがある。「フランス人の道」「イギリス人の道」「アラゴンルート」「ポルトガルの道」etc..。

ぼくはこのうち最もポピュラーな「フランス人の道」を歩くことにした。

サンティアゴ巡礼路 ロンセスバージェス ロンセスバリェス


 

 

 

 

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