生きていく。ただ、それだけのこと。

システムエンジニア、旅、世界を学ぶこととか、雑記ぶろぐ。世界遺産マイスターになれました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩く ~1日目 ①~

スペイン徒歩横断30日の記録と記憶。1日目1話目。ここに来るまでにいろいろありすでにへとへとだが、今日からは始まり。始まりの街サン・ジャン・ピエ・ド・ポー。ここで巡礼手帳をもらい、ピルグリム(巡礼者)になれる。今回はスタートするまで!ブログのスピード感おそ!

この街には夜中について、次の日の朝にすぐ出発してしまったが、非常にもったいないことをした。このサン・ジャン・ピエ・ド・ポー街自体も歴史があり非常に魅力があるところで、観光地にもなっているくらいだ。フランスで最も美しい村の一つにも数えられるくらいのところだ。もっとみてまわりたかったなー。

この街を歩きまわることをぜひお薦めする。

tadasoredakenokoto.hatenablog.com

 

上の続き。

0.ルート

SJPPサン・ジャン・ピエ・ド・ポー

ロンセスバージェス

 

※今回は太字の部分

 

 

1.勢いのまま飛び出した。

窓から光が入ってくる。

馴染みのない声と言葉が聞こえてくる。

近くで犬の鳴き声がする。ものすごい近くで。

犬?

目をあけて部屋を見渡すと犬がいる。

おや。理解が追いつかない。

そういや、昨日の夜になんとか宿をみつけて、ドミトリー(大人数の部屋)に泊まってるんだっけ。眠い。日本をでて、始めは飛行機の中で寝て、昨日は眠りに入ったのも1時くらいだった気がする。携帯をみたら朝6時。まわりの人はすでに準備をはじめている。巡礼者の朝ははやい。

今日はいいかなー。ほんとは次の日からのスタートのはずだったし、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの街もみたいし、装備をもう少し整えたいし。

とりあえずこの状況じゃ、二度寝ができなさそうなのでシャワーをあびる

頭がクリアーになる。

そうだ。

昨日泊まる手続きしてるときに犬が何匹がいたなぁ。ここの宿の子か。なるほど。俺は犬好きだからいいけど、苦手な人いたらかわいそうに。

そういえば、昨日知り合った韓国人のスンジンはどこにいるのだろう。部屋にはいない。荷物ありそうなんだけどなぁ。

何の気なしに窓から外をみる。

オシャレですねぇ、街が。

サン・ジャン・ピエ・ド・ポー シタデル通り

下から声がかかる。スンジンがいた。どーやら、タバコをすってたようだ。

「今日から歩き始めるの?」

「韓国人の友達はすでにスタートしたみたいだから、俺もいく。」

「そうかー。よし、いくかー!」

また勢いで答えてしまった。昨日から勢いばっかりだな。

まわりに流されている

と言えなくもない。

でも、流されることで見つかることもある。自分も思いもしなかったことをすることで世界が広がる。

ながされるのではなく、流れて生きる。

誰の言葉だったかは忘れた。

すごい響いた。

行動力のない自分にとっては、助けにもなった言葉。せっかくいい流れが、波がきてるならそれに乗ればいい。その中で自分を見失わなければ。

単純にスタートは一人だと不安てのもをあるし!

支度をして、外に出た。他にも似たような感じの人達がちらほら。

歩き始めるにはまず巡礼手帳(クレデンシャル)が必要となる。

巡礼者はこの手帳を手に入れることから始まり、巡礼者として認められる。この先からはこの巡礼手帳をみせることで、アルベルゲという巡礼宿にとまれるようになるし、またアルベルゲやバルなどでスタンプをもらう。そのスタンプが歩いた証拠となり、最期に歩ききった証明書をもらえるようになるのだ。そのときまで大事にしておかなければならない。

この巡礼手帳をもらうためには巡礼事務所にいかなかければならない。

(事前に日本でもてにいれられたような。カミーノサンティアゴ友の会で申請できたような。)

どこにあるんだろ、と思ったのも束の間。すぐ目の前にあった!泊まった宿の向かいぐらいにあったのだ。

 

サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの巡礼事務所

住所 39 Rue de la Citadelle,64220 Saint-Jean-Pied-de-Port,フランス

メイン通りのシタデル通りにある。

なんとなく人の流れをついていっても辿り着けると思う。

 

2.巡礼手帳を手に入れた!

さっきから人いるなぁ、と思ったらそういうことだったのか。

事務所の中に入って少しだけまち、自分の順番がまわってきた。手数料だったかな。詳細は忘れたが2ユーロ払った気がする。名前と国籍を伝え、簡単な説明をうけた。スペイン語の場合もあるなんて聞いていたが、流暢な英語で説明してもらえた。ちなみに日本人は年間1000人ぐらいくるらしい。

へー、そーなんですね。(そんなにいるのかー、と思いつつも年間35万くることを考えれば少ないな。)

最期に、巡礼初のスタンプをクレデンシャルを押してもらった。なんか嬉しい!これでSJPPから歩いたことの証明がされる。

クレデンシャル 初めてのスタンプ

クレデンシャル以外にも全ての街のアルベルゲが書かれた紙をもらった。街間の距離も書かれてるし超便利じゃん!ガイドブックや最近はアプリにも同様のこと書いてあるけど、この紙は重宝しました。

ちなみにこの巡礼事務所はボランティアで運営されており、みなカミーノの経験者。なので巡礼路についての質問などにも答えてくれるので、心配なことがあればここできいておくといい。英語かスペイン語ができれば問題なし!

よっしゃ!いくか!

 

 

アジアのバス旅

まだまだコロナがおさまる気配はみせない。きっとこのまま続くのだろう。それがwithコロナの新時代。決して明るい未来ではない。

世界中のコロナ対策はどんどん緩和している。日本は依然として、厳しい対策。それでいいと思う。世界の他の国と合わせる必要はない。コロナがなくなるのが一番だ。

とはいえ、その緩い規制のおかげで今は海外旅行に簡単にいける。

コロナワクチン接種証明はマイナンバーカードを登録していれば「接種証明書」というアプリがあれば簡単に取得できる。そして、そのアプリをみせるだけで飛行機に乗れる。

また、帰国時にも72時間以内の陰性証明書が必要になるが、それをアプリ「mysos」というものに登録する。そうすれば帰国時にも検疫をうけずにすぐ日本に入国できる。

海外旅行いけますね。いきたいですね。帰国難民にだけはなりたくないですね。

 

リゾート地もいいがアジアの喧騒を味わいたい。うるさい街中で汗かきながらホットコーヒーを飲みたい。街中でマリファナをうりつけられたい。

アジアいきたいなぁ。タイかなぁ。

旅気分を味わいたくて本を読んだ。

以前にも紹介した旅行作家「下川祐治」さん。主にアジアの旅について著作が多い。上の本はアジアンハイウェイという日本からトルコまで続く道をバスで旅しようというもの。日本橋から出発し、博多から船で韓国へ。そこから中国、東南アジア、南アジア、中東とわたり最後はイスタンブールまで。

ほとんどバスのりっぱなし。全然観光してない。いった場所の紹介すらない。書いてあるのはとにかくバスのこと。あとは相変わらずの愚痴。特に目立ったのが

「ホテルで寝たい。」

しらねえよ!とまれよ!

と思いながら、予算の関係もあるのだろう。とにかく先を急ぐようにバスに乗り続ける。バスの接続がうまく続く限り乗り続ける。

そのバスの探し方も昔ながらだ。20年ほど前の本だから当時は当たり前だが。とにかく人にきくだけ。インターネットで調べることなんてない。中国にいたっては英語が通じないから筆談!いやぁ、大変だなー。

内容的にもそれが伝わってくる。距離の割に中国やインドについての記載が多い。苦労したんだろう。中国はまだ旅の始まりということで元気はあった。旅の中盤インドからは苦労・疲労がみてとれる。

『夜行バスが三晩も続いたのだ。判断力ないというより、考えることを脳が拒否しはじめているような気がした。』

『僕はもう、どうでもよかったのかもしれない。インドのバスに精力を完全に奪いとられていた。』

『どこかでちゃんと休まなくちゃいけない。そうでもしないと脳が壊れてしまう。』

いくら旅慣れてるとはいえ、バスに乗り続けると人間こうなってしまうのだ。またそれだけインドのバスは強烈というのもある。

 

 

僕もインドのバスの経験があるからよりわかる。いま思えばよく目的地にたどり着いたなぁと思う。かなりギリギリだった。あれは、ネパールから国境をこえてインドのブッダガヤにむかったときのこと。この本ほどではないがバスを乗り継ぎ30時間以上はかかった気がする。一人だったのもまた辛かった。

インド国境のラクソールからパトナまでは夜行バスだったのだが、窓が閉まらなかった。埃、排気ガスがバンバン入ってくる。顔をタオルでまいて貴重品を抱き抱えるように丸くなって寝た。寝た、ような気がした。やがてバスがとまった。ここがパトナのようだ。まわりはバスだらけ。疲労と眠気で頭が働かない。まわりに旅人もいない。とりあえずブッダガヤいきのバスを探すしかない。のってきたバスの運ちゃんにブッダガヤという単語をつげるとなにやら人だかりできいてくれている。

あいつだ。」

と指差す人物に、話すと

ブッダガヤではなく。ガヤ行きだ。ガヤで乗り換えなさい。」

わかった。わからん、けどなんとかする。何時間かかるかもわからない。そうしてのりこんだバスはローカルバスだった。乗り降りする人を眺めなんとかガヤについた。

けっこうハードな移動だった。いま思えばよくついたな、と思う。

 

 

辛い経験もいまではいい思い出。

だからこそ、辛さ万点の旅を読んで、いいなぁと思ってしまった。

アジアハイウェイを走るバスを乗り継いでトルコへ

目的も非常にわかりやすい。予定もルートもざっくりだけ決めてあとはでたとこ勝負。

東京TVでやってませんか、そんな番組。太川さんがでてるバス旅みたいな。ちゃんとみたことないけど、あれもバスを乗り継ぐやつですよね。スマホとかを使わないで。

あれをアジアでやる感じ。ゴールにむかうバスに乗る。不確定な情報を旨に前にすすむ。足元をみてくる客引きとの戦い。なんとスケールの小さい旅!でも、最近はホテルの予約しての旅行ばっか!こんなバス旅もいいよなぁー。

これは2,3人でやったらけっこう楽しんでできる気がする。

まだまだ僕はバックパッカーなのかもしれない。

昔の非効率なバス旅に興味がある人にお勧めです!

 

 

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩く ~0日目 ③~

スペイン徒歩横断30日の記録と記憶。
0日目3話目。サン・ジャン・ピエ・ド・ポー(SJPP)につくまでで3話もたってしまった。それだけ、思い出がつまっていたということだ。

※写真はほとんどありません。何故かSDカードがぶっ壊れてしまいました。携帯でも写真ほとんどとってません。とっときゃよかったー。

 

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上の続き

 

0.ルート

東京(羽田空港

パリ

バイヨンヌ

SJPPサン・ジャン・ピエ・ド・ポー

※今回は太字の部分

1.ガレット食べたり、道きいたり、きかれたり

バスまで時間あるし、バイヨンヌの街をひと歩きしよう。
知り合った韓国人スンジンとともにいくことに。といっても教会があること以外は知らない。とりあえず教会を目指すことに。
街には、親切にも案内表示の看板が。バイヨンヌはフランスとスペインに跨るバスク地方の中心都市。バスク博物館とかもあるらしい。案内板に沿ってサント・マリー大聖堂についた。
サント・マリー大聖堂は13〜14世紀に建てられたゴシック式の大聖堂。でかい!

サント・マリー大聖堂 バイヨンヌ
久しぶりに大聖堂をみた。
ヨーロッパにきたなぁ、と感じた。
「クリスチャンなの?」
とスンジンに聞かれた。
「はは、ちがうよ。でも教会は好きなんだ。」

 

教会をみたあと、川沿いまで歩いた。いい感じのカフェがあるので入ってみた。おお!ガレットあるじゃん!いいねぇ、フランスっぽい!
「ガレットってなに?」
「。。。確かに!なんだろう。でも、きいたことあるよ!」

バイヨンヌ カフェ

手前がスンジン。

 

言われてから気づいたがガレットってなんだ?とりあえずクレープみたいなものだよ、と。スンジンがスマホで調べていた。
そういえば。
スンジンは当たり前のようにスマホを使っていた。パリでSIMカードを買ったという。
スマホ使えなくて大丈夫?」
いまの世の中、海外でスマホ使うのは当たり前なのだろう。便利だし。だが、もちろん僕はSIMカードなんて買ってない。そして買おうとも思わない。多少、不便なぐらいのほうがちょうどいいからだ。旅っぽいし。旅の要素として、不安・孤独を感じるのはとても大事だと思う。日本にいたら絶対に体験はできない。まあ、一度世界を放浪したことがある、というのが自信にはなっている。なんとかなるでしょ、と。たまにフリーwifi拾うぐらいいいかな。


ガレットを食べて、コーヒーを飲んで、駅に戻ろう。と思ったら、道がわからなくなった。人にきこうとしたらスンジンがガンガン話しかけてる。英語できないのに。てか、スマホGoogleマップ使えや!
若いイケメン三人衆がひまだからってことで駅まで案内してくれた。

ありがとう!

バイヨンヌ

スンジンとフランス人イケメン

※ちなみに後ろの建物がバイヨンヌ駅。この写真右奥ぐらいにバス亭。

まだ時間はあるので、スーパーを探しにいこうと歩きだしたら、
「SJPPにいきたいのですが、バス停はどこですか?」
ときかれた。バックパックを背負ってる東洋人二人をカミーノにいく人だと思ったらしい。確かにこのまちに東洋人は不自然だ。道をきいてきた人はドイツ人。今日だけでいろんな国の人と話したなー。一緒にスーパーもいって、バス停まで連れていった。
バス停といっても何もない。とりあえず疲れたので、座りこむ。座ってたらバックパックを背負った似たような人がチラホラ。
そしてそこに座ってる俺らにきく。
「SJPP行きのバス停はここ?」
そうだよな、やっぱわかんないよな。そこにちょうどよく東洋人座ってたらバス停だと思うよな。正直にいえば、おれもここがバス亭かは半信半疑だ。だから笑いながら、
「maybe.」
「i hope.」
と答えるしかなかった。
何人ぐらいだろい、15人ぐらいは集まってきたかな。あれ、そういえば宿どうなったのだろう。スンジンにきくと
「知り合いが泊まってる宿はもういっぱいみたい。」
なるほど。こりゃ、困った。
ついてから探すしかないか。ここにいる人はたぶんみんなSJPPいくよな。この人達についていこう!人任せ作戦でいくことにした。

 

時間になったらバスがちゃんときた。
よかったー。一安心。まだ宿を探すミッションは残っているが、少し緊張の糸がきれた。バスに乗ったら速攻眠ってしまった。

2.SJPP着。みんなで歩けばこわくない?

本当に一瞬だった。
バスに乗り込んだ記憶はあるが、どうやっておりたのだろう。気が付いたらバックパックを背負って真っ暗闇のなかでたっている。街灯もほとんどない。まじでここどこだよ!
スンジンとどうしようかと話していると、他の欧米人はみんな同じ方向にむかって歩き出した。さすがだね、みんなちゃんと下調べしてきてるんだよね。当たり前といえば当たり前か。これについていけば大丈夫でしょ!
壁の色や屋根の色が綺麗な家々がでてきた。先ほどまでは真っ暗で何もみえなかったが、街灯もふえ、少しは明るくなってきた。街に近づいてきた。
気がつくと人数が減っている。宿をみつけて入っていったのだろうか。しっかりみてみると、「1bed 10€」的なことが書いてある!宿あるじゃん!しかし、そこには同時に
FULL
という文字も。そうだよね。。。
この10人弱の集団。最後方を歩いていた。みんなどんどん進むってことは宿が決まってるか。
そんなとき、ふと電球がついてる看板が。アピールしてるっとことはなんとなく空いてそう。
もう眠い。日本語で、
「ここ空いてそうじゃない?」
と喋りながらそういって中に入っていく。
メガネのオバちゃんがでてきた。
「とまれます?」
「いいけど、何人?」
「2人」
と言って、振り返ったらスンジンの奥に人の列ができてる。前方にいた欧米人たちがついてきてる。
。。。
お前ら全員宿なしだったんかい!
よくそんなん自信満々で歩けるな!
さすが欧米人!
見習いたいな!
なんとか全員泊まれるみたい。
よかったよかった。

あー疲れたー。昨日は飛行機のなかだったし。そーいえば。元々、今日はバイヨンヌ泊のつもりだったのに。

 

続く

 

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩く ~0日目 ②~

スペイン徒歩横断30日の記録と記憶。
0日目2話目。書き始めるといろいろなことを思い出しますね。サン・ジャン・ピエ・ド・ポー(SJPP)にまだつかず。。

※写真はほとんどありません。何故かSDカードがぶっ壊れてしまいました。携帯でも写真ほとんどとってません。とっときゃよかったー。

 

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上の続き

 

0.ルート

東京(羽田空港

パリ

バイヨンヌ

SJPPサン・ジャン・ピエ・ド・ポー

※今回は太字の部分

1.フランスの電車

フランス国鉄TGVでパリからバイヨンヌ(BAYONNE)まで。
およそ4時間。
この電車はwifiはないらしい。
前回の記事に記載したが、今日バイヨンヌで予約した宿の予約が完了してないらしい。
さて、困った。
が、携帯もネットも使えないし、どうすることもできない。

どうすることもできないのだから、何もしない。
うん、着いたら考えよう!!
本でも読むか。
誰かが俺の肩を触っている。
横をみたら小さくて金髪の少年ボーイが興味深そうにこっちをみていた。

僕が乗っている電車の席は向かい合いの4人席で、僕以外はフランス人の方で

お婆さん、お母さん、お子さん

の3人だった。
その子はのってきたときはベビーカーにいた気がしたが、気が付いたら僕の横にいた。なんだろうか、東洋人が珍しいのだろうか。まだ言葉は話せるような年齢じゃないし、そもそも僕もフランス語は喋れない。ならばと、カメラをとりだして、それで写真とったりビデオモードで遊んだりしてた。
(甥っ子もこれでご機嫌になったことがあるのでいける!と思った。)
遊んでたら、向かいに座っているお母さんが話しかけてきた。パリのことやバイヨンヌについていろいろ話してくれた。
久しぶりの英語の会話だったので大変だったー。
けど、思ったよりいけたな!とか思いながら。
この家族は途中で駅で降りていった。
楽しい時間をありがとうございました。
残りは車窓をみて過ごした。
なんで、ヨーロッパの車窓はこんなにみてられるのだろう?

田舎にいけばいくほど、より豊かになっていく。
世界の車窓からのテーマ曲を何回もループした。

2.バイヨンヌ着。バスがこない?!

フランスの子供と遊んだり、

写真とったり、

車窓みてたり、

であっという間についてしまった。

本読む時間とか、もうちょい時間ほしかった。

バイヨンヌのホームにおりたつ。ホテルもとれてないしなー、どうしようかなー。

まわりをみるとチラホラ、大きいバックパックを背負った人たち。カミーノに行く人かな。日本人はいるかなー、キョロキョロしながら歩いていたら駅をでてしまった。思ったより小さい駅だ。とりあえず一息つきたいので、カフェかベンチがないかと思い、もう一度駅の中に戻る。そのときに、

「へい!」

おれか?

「HEY!アロー!!」

おれっぽいな。振り向いたらそこに東洋人。

「イエス!ユー、ウオーク、カミーノ?ジャパン?チャイナ?」

人のこと言えないが、なかなかに下手くそな英語で話しかけてきた。

この男は韓国人のスンジン

韓国では、映画や出版によりカミーノがとても人気だときいていた。僕の感想だが、文化的に、というより若者の一つのイベント・思い出作り、という感じはしたが。そんな絵にかいたような韓国人がこのカミーノで初めてのアミーゴになるとは。思わず笑ってしまった。

お互い苦手な英語で会話を始める。スンジンはサン・ジャン・ピエ・ド・ポー(SJPP)行きのバスを探してるとのこと。

あれ。

そうか。

そうだよな。

ここバイヨンヌで一泊する必要ないよな。SJPPまでいっちゃえばいいのか。

「そう、おれもバス亭を探していたんだ。」

言いながら、一緒をバス亭を探すために、駅にある観光案内所、なのかただの駅の案内所なのかにききにいった。

「入口をでてすぐ左のところよ。」

「めるしー」

駅をでてみた。左のところに駐車スペースみたいのところがあった。ここか?看板も何もない。

もう少し歩いてみたが道しかない。さっきのところのほうがぽいが、ようわからん。

もう一度ききにいったが、同じことを言われた。

うーん。どういうことだ。誰もいねえし。

まごまごしてたら、建物から人がでてきた。話しかけたら英語があまり通じない。

身振り手振りで、なんとかバス、SJPPにいきたい思いが伝わった。

その方は一回戻り、バスの時刻表をもってきてくれた。

おおーメルシー。

バイヨンヌ バス 時刻表

バスの時刻表

なるほど。いまは16時すぎ。次のバスまで2時間ある。軽く街のなかを散歩できそうだ。バスの時刻表をもってきてくれた人が何かいってる。

「バス、ノー。トゥデイ、ノー。トゥデイ、イースタートゥデイ、オンリー(といって時刻表の一番下を指さす)」

どうやら今日(2018/04/01)はイースター=復活祭というキリスト教のイベントらしい。その影響で今日はバスが少ないらしい。夜の一本しかないと。

なんと!!

随分な日にあたってしまった!まだだいぶ時間あるじゃねえか。それより、SJPPにつくのが22時過ぎになってしまう!SJPPでも泊まるとこ決まってねえしなー。夕方くらいにつければ宿を探す余裕があるが、ちょっと遅いな。

でも、SJPPはカミーノのスタート地点として有名な場所。宿(アルベルゲ)はたくさんあるはずだ。とはいえ、さすがに知らない街に22時すぎにつくのは不安だが。まあ、今までも経験あるからだいじょぶっしょ!

スンジンと宿の話をした。彼はどうやら知り合いがすでにSJPPにいるらしい。その人に宿の部屋が空いているかきいてみるとのこと。

ありがとー!!

ということで、暇なので街歩きでもしますか!

バス亭の看板とか、イースターだからバスのない知らせとかはっとけや!

 

つづく

 

イースターの日にちをチェックしておきましょう!!

イースターEaster)=復活祭

イエス・キリストの復活を祝うお祭り。キリストが十字架にかけられて処刑されたが、実は処刑後にキリストは復活していると言われている。そのキリストの復活をお祝いするイベント。

具体的な日にちは決まっていない。キリストが復活したのが日曜日だったということで、イースターの日にちは春分の日以降、最初の満月から数えた最初の日曜日と定められている。毎年変わるので春に出発予定の人は事前にチェックしておこう!

 

 

 

ハルキスト?

段々と海外旅行が解禁されてきましたね。
まだ、ワクチン接種証明書だったり、帰国前には陰性証明書が必要だったりと煩わしいこともありますが。
ゴールデンウィークでは友人がタイにいってました。
いいですね。私も次の3連休あたりには弾丸でアジアにいこうと思ってます。台湾が丁度いいかな。
何の気なしに本屋でガイドブックを立ち読みしようとしたら面白い本を発見しました。

るるぶONE PIECE (JTBのMOOK)

るるぶONE PIECE (JTBのMOOK)

  • ジェイティビィパブリッシング
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ワンピース好きにはたまらんすね。モデルになった舞台などを紹介しています。モデルになっているのは知ってましたが、ディテール部分まで意味があるとは知りませんでした。ワンピースのこともより深くしれたし、海外旅行の予習もできてとても面白かったです。旅に中二心は必需品ですね。

 

けっこう海外にいってる村上春樹さん

好きな作家をきかれて、
村上春樹
と、答える人って意識高そう高そうな感じがする。
と思ってた。
今でも思ってるかもしれない。
ハルキストとか気持ち悪。って思ってた。
今でもそう思ってる。
私もそれなりに本は読んでると思っているが、確かに村上春樹さんの本って他の方たちとは一線を画するという気がする。それが「前衛的」なものかどうかがわからないが。(そもそも前衛的がどうかを判断できるほどの知識はないが。。)
内容もそうだが、文体だろうか。不思議な物語運びをする人だ。
正直、内容が面白いかどうか、と言われると
そうでもない。
特に1Q84にいたっては2回ほど読んだが、今だによくわからない。
それでも、悔しいが、村上春樹さんの本は大体読んでしまった。
気が付いたら、好きになってしまっていた。
旅行の度には、いつも
「遠い太鼓」
をもっていくほどだ。
村上春樹さんはめちゃくちゃ面白い!!と思って物語に引き込まれるというよりも、読んでいて心地いい、と感じる。読むこと自体がとても気持ちいい。そこにとても惹かれる。中にはとても深い内容な様で全く意味をなしていない文もある。
『それは僕にとってもはとても大事なことであると同時に、とても大事なことではなかった。』
みたいな。なんだよ!とか、思うけど、こういう言い回しを楽しんでしまっている自分がいる。
こんな文体だから、物語はよく意味のわからないのは多いが、エッセイは面白い。その中でもとくに紀行文がお勧めだ。(とくに上記の「遠い太鼓」!!)
村上春樹さんの代表作はやはり
ノルウェイの森
ですかね。(1Q84ですかね?)
私は「1Q84」から入りました。そして1回諦めました。意味わかんねぇ!と思って。(いや、物語としてはいまだに意味わかんねけど)

それからしばらくは村上春樹さんの本は読んでいなかった。
ある日、本屋で平積みされていた本に目がとまった。
ラオスにいったい何があるというんですか?」


村上春樹の本か、とか思ったけど、「ラオス」という単語一つに誘われ買ってしまった。
そこからだと、思う。村上春樹さんにはまったのは。
そこから、はじめは主にエッセイを読んでいった。この人は、よくも悪くもひねくれているので社会の切り取りかたが面白かった。
段々と村上春樹さんの文体に慣れてきたころに「ノルウェイの森」を読んでみた。やはりめちゃくちゃ面白い!と思ったわけではないが、読んでいる途中もそうだが、読み終わったあとに不思議な浮遊感があった。これは村上春樹さん以外の方ではほとんどないことだ。テンションがあがる、というよりも心が整う感じがした。気が付いたら彼の本を手に取り読んでしまうのだ。
そこで出会ったのが「遠い太鼓」。


内容としては40手前にして、日本を離れギリシャ、イタリアに暮らしながら小説を書いているという日常のエッセイだ。(この時期に「ノルウェイの森」は生まれた。)
私が海外生活に憧れているのもあったからかもしれない。
特に好きなギリシャの島というのもあったからかもしれない。
何度も読み返してしまう。
スペインにカミーノにいったときももっていった。
カミーノにいこうと思ったのもこの本の言葉があったからだ。
『ある日突然、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。』
やっぱ。そうだよね。
旅に行く理由はこれ以外ないよな。

 

 

イタリアに住むのは大変だ。だから住んでみたい。

いまは虎ノ門ヒルズにあるオフィスに出勤している。

コロナ渦、テレワーク推進のご時世のため月に1,2回のほどだが。

虎ノ門ヒルズのオフィスはとにかくオシャレ。まあ、今までのところが普通のビルだったのもあり余計に感じてしまいます。地下にも店あるし、1階にはジョエル・ロブションあるし、3回はランチ・お酒が飲める店もあります。

まわりにはラーメン屋大多いし。こういうところなので、全然出社したのですがね。

そのためたまに出社したときは、わざわざ高めのランチいったり、終業後には辺りを散歩して帰ります。

虎ノ門ヒルズのなかに、小さいけど、活かした本屋があります。

芸術系とか、インパクトのある本が並んでおり、ついつい入ってしまう。

そこで、たまたま目にとまった。

久しぶりに本を衝動買い。

 

自然の中にヨーロッパの小さな村。

大好物です!

物語?小説かな、と思ったが、どうやらノンフィクションらしい。

 

エッセイスト 内田洋子

全然しらなかった。

この本以外にもたくさんエッセイをだしていた。

しかもイタリアばっか!

賞もしっかりと受賞されています。

日本の賞だけでなくイタリアでも

金の籠賞(GERLA D'ORO)

というものを受賞しており、「金の籠賞」がイタリア人以外に送られるのは史上初のことらしい。すげえぇぇ。

たまたまとった本、知った作家さんだがとてもついてる。やっぱり衝動買いっていいね!ネットで本を探すにはない喜びだ。まあ、失敗することももちろん多いけど!!

私が今まで読んできたエッセイはどちらかというと旅行記が多かった。(正確にいうと旅行記なのでエッセイにはいらないか??)

内田さんの著作は主にイタリアのこと、イタリアに根をはってイタリアの文化や暮らし、人間模様を書いてくれている。住む場所も様々。ミラノに住んでいることもあれば、ヴェネツィアや山奥の村、はたまた船上生活もされたことがあるらしい。なかなかパワフルな人だ。それも、そこに住むことになったのも、人の話を聞くうちにそこに住みたくなったみたいな流れて生きてる。そして、その地でしっかり溶け込み暮らしている。そこでの日々の生活が生き生きと描かれている。ミラノのスラム街をびくびく犬をつれて歩いたり、同じアパートの住人達を夕食をともにしたり、バルにくる人々を観察したり。イタリア人て面白い!よくも悪くも人の生活に土足で踏み込んでくる感じが。

変なところ人情深いよね。

こういう生活憧れる。

僕も一時期エジプトに住んでいたが、確かにあいつら面白かったなー。めんどくさいけど、何かあるとすげえ優しいんだよなー。

そんな生活も思い出すこともできた。

内田さんの本は上以外にも

ジーノの家

・対岸のヴェネツィア

・十二章のイタリア

を読んだ。どれも面白かった。

著作はまだまだあるので、できるだけ読んでみたい。

イタリア語勉強しよう。

 

 

世界遺産マイスターへの道のり⑤ ~ 問3.解答例 ~

世界遺産検定マイスター試験の問3だが、ググってもほとんど解答例をみつけることができなかった。解答が小論文なので、書くのも大変だし、覚えていないのもある。

私もせっかくだから、合格時に書いたものを乗せようと思ったが、、、確かに覚えてない!!少し時間たったのもあるが、試験に集中していた、集中しすぎていたので試験が終わったと同時に燃え尽きていた。詳細まで覚えていない。

試験時に書き始める前に小論文のプロット、構成的なものがあるので、それを乗せつつ、できる限り書いていこうと思う。1200字には届かないが、多少参考になってくれることを願い、回答例(模範解答)を記載していく。

 

 

0.問題(第46回:2021年12月)

問3
2021 年の世界遺産委員会において、英国の「海商都リヴァプール」が世界遺産リスト
から削除された。危機遺産リストに記載されている遺産を、世界遺産リストから削除す
るという世界遺産委員会の対応の是非について、世界遺産の保護の観点から具体的な事
例などを用いつつ、1,200 字以内で論じなさい。

1.プロット

第一段落(結論)

世界遺産条約世界遺産の顕著な普遍的価値を保護するための国際的な協力体制の確立を目的とする。

・「海商都リヴァプール」の削除は時期尚早だと考える。危機遺産のままにしておくべきだった。

 

第二段落

・「海商都リヴァプール」が削除された経緯。遺産保有国の英国は、世界遺産であり続けたい意思はあった。

・過去に削除された2件の事例を記載。両方とも遺産保有国は経済的利益、生活の利便性を優先した。

・「海商都リヴァプール」は世界遺産であり続けたい意思があったのでだから、削除せず危機遺産のままとし、世界遺産委員会及び世界遺産条約締約国で協力し、危機遺産から脱出するための道を探すべき。

 

第三段落(解決案提案とまとめ)

・これからは遺産を増やしていくよりも、登録された遺産の保護・保全に重点を傾けるべき。世界遺産遺産委員会も2年に一度とし、危機遺産の保護に力をいれる。世界遺産条約締約国で危機遺産脱出のためのプロジェクトチームを組んで問題改善に本気で取り組む。それが世界遺産委員会のありかたであると考える。

 

2.解答例

※頑張って思い出したみて記載してみた。正直、第2段落の最後の部分がうる覚えで、、、。少し、自分の意見が少ないようにみえるが、そこまで論理は破綻してないはず。ここで晒すのは怖い。けど、いくらかは参考になるかと思います。

意見・ご指摘当ございましたらむしろお願いします。

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 世界遺産条約は顕著な普遍的な価値を保護するための国際的な協力体制の確立を目的とし、遺産の保護・保全世界遺産条約の締約国の義務ともされている。この条約の理念を踏まえても、本年度の世界遺産委員会において「海商都リヴァプール」が世界遺産リストから削除されたことは時期尚早だったし、危機遺産リストに登録しておくべきだったと考える。
 「海商都リヴァプール」は大英帝国の最盛期に国際貿易の中心地として栄え、近代で最も重要な港湾都市とされ世界遺産に登録された。2012年に経済復興のための再開発計画が決まり、開発地区が資産や登録範囲に跨っており、歴史的都市景観が断絶・断片化することが予想されるため危機遺産リストに登録された。その後も、世界遺産遺産委員会の繰り返しアドバイスや要請を受けたが、改善がみれないとして2021年に抹消された。その際に英国は「非常に遺憾」であるという声明をだした。この声明により遺産保有国の英国は世界遺産であり続けたいという意思をみることができる。ここが過去に削除された遺産と異なる点である。
過去に削除された遺産の「アラビア・オリックス保護区」ではオマーンが資源開発・経済優先を優先するため自ら削除を申し入れた。また「ドレスデンエルベ渓谷」は旧市街の交通緩和を目的にエルベ渓谷に橋をかけることを住民投票により決めた。橋をかけることで世界遺産から削除されると勧告を受けていたのに関わらずこのような結果となったのは、遺産を保護していく地域社会で世界遺産であり続けることを望んではいなかったことになる。過去に削除された2件は世界遺産であり続けたいという意思がなく、「海商都リヴァプール」にはあった。世界遺産であり続けたいという意思があったならば削除せずに危機遺産リストに登録したままでよかったのではないか。危機遺産リストに登録し、危機を回避するために世界遺産委員会や世界遺産条約締約国が協力してもっとできることがあったはずである。資金的な援助をするなり、危機遺産からぬけるためのプロジェクトチームを組むなど、世界遺産をあり続けたいという意思を尊重し、もっと話し合うべきだった。アドバイスで改善がみれないからといって、切り捨てるのはとても国際的な協力地体制が築かれたとは思えない。
 昨今、世界遺産の数が非常に多くなっている。いまは、世界遺産の数を増やすよりも登録された世界遺産を保護・改善・モニタリングをしていく段階にはいっている。これからは世界遺産委員会を2年に1度にし、危機遺産の遺産保護を重点的に行っていくべきだ。今までよりも長期スパンを遺産保護支援のための国際的な協力体制をくむことができるし、危機遺産を救えるのではないか。それが世界遺産委員会のあり方だと考える。

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